華氏451度

History is his story.

千紫の寄生虫

「文章を書くことは、私にとって肩の荷を下ろすようなものであった。

重く両肩に伸し掛る生きる苦しみを、結晶に、思い出にしてしまうのである」

 

どこかで聞いた言葉で、強く共感した。

以来、文章を書く時は、思考を結晶にするイメージを持って筆を執っている。

 

思い出はいつだって美しい。苦い経験や失敗も結晶になれば輝きを放ち、自らを肯定してくれる。

 

だから、文章を書くことはやめられない。過ぎっては泡沫のように消えゆく感情を言語化し、文字に閉じこめる、それが僕にとってずっと変わらない生きがいだった。

 

 

 

 

 

しかしながら、げに不思議なるは言葉というものだと思う。

僕は、言葉とは寄生虫だと見なしている。源泉は「ドグラ・マグラ」「フランケンシュタイン三原則」「屍者の帝国」に根ざしているのだけれど、ちょっとだけ面白い見方が出来るからだ。

 

 

猿と人間の知性を分かつのは言語であり、身体的な差は驚く程に少ない。

だから例えば、はるか昔、ある猿の集団の脳みそにどこからかやってきた透明な寄生虫が入り込んで「意識」として肉体のコントロールを得た、と考える。 

 

こう仮定すると、人が語りたがる理由、ひいては「本が存在する理由」まで説明することが出来る。

(本が存在するためには、書き手はもちろん、読み手が存在しなくてはならない。受け取り手がいなければ文化は発展しない。需要があったからこそ供給としての価値を持ったのである。)

 

寄生虫の方に話を戻す。

つまり、我々の本体が虫=言葉、だとするのであれば、語りというものは自身の遺伝子を他者に刷り込む行為と考えられるからである。

これは形而上学的な繁殖行為であり、畢竟、生物に共通する本能的なものである。好むのは当然と言える。供給する側、つまり「語りたがる」ことに関してはこれで説明ができる。

 

では、供給される側に関してはどうだろう。

成功者の多くは、様々な体験をして、様々な人間との交流を通して相手の考えを吸収している。(言葉を供給されている。)

 

これを生物学的な見地から評価するのであれば、遺伝的多様性に富んでいるということになる。

つまり、社会進化論における自然(社会?)選択に耐え得る事ができるようになったため、淘汰されずに登りつめることが出来たと解釈できる。

 

と考えると、「語りたがる」のも「人の思考を知りたがる」のも、生物としての根源的な本能に帰するという見方をすることが出来る。

 

話を元に戻すけれど、つまるところ僕の生きがいの軸は文章にある。

その文章の内面、即ち虫の遺伝子の多様性を富ませるために、少しでも多くの人と関わりたいと思っている。

 

History is his story.

何度だって言うけれど、人に歴史あり、だ。

 

いつか、棺の蓋が閉まるまでに、自分の書いた文章で人の心を芯から揺さぶれるような人間になりたい。

 

 

 

 

昨日、バイト先の中国人と仲良くなった。海外の高級タバコをくれたので、一緒に公園で吸いながら、一時間ほど話した。

今日も多分、同じことをする。約束はした。

 

僕の怪しい英語と彼の怪しい日本語は、恐らく半分も意味は通じていないのだけれど、なぜか心地よかった。

彼が、全く関わったことの無い人種だったからだろうか。

 

 

 

今日も寄生虫は脳裏を駆け回る。

QOLの低さを嘆きながら、夜の空に上がる煙草の煙を待ち侘びている。